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□ 1-1 通信…その始まりはアマチュア無線だった |
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私が中学の頃、趣味でやる「通信」といえば(アマチュア)無線でした。最初は音声(電話)でしたが、そのうちCW(電信)をやるようになり、ついにディジタル通信?に手を染めたのでした。 詳しい話は無線のページに譲りますが、結構この電信というディジタル?モード、奥が深くて、高校の頃本格的に始めて今でもハマっています。振幅方向はディジタルですが、時間方向は手で電鍵を打てばアナログですから、個性やクセのある符号もあって、飽きません。同じ電力でも遠くと交信できる利点もあります。 アマチュアでも上級の試験からは、電信の試験の削除が議論されています。業務用の局では、ほとんど使われなくなってしまいましたが、通信の原点とも言える方式が、なくなってしまいそうなのは寂しい限りです。 さて、電信の話はこれくらいにして、通信を趣味にしていると、何に病み付きになるでしょうか? 無線なりパソコン通信なり、やったことのある方ならお分かりかと思いますが、何といっても接続された時のあの感激です。相手が応答してきたり、リンクアップした時にランプが点灯したり。私もそんな感激が忘れられなくて、いまだに抜け出せない(別に抜け出す必要はないが)でいます。
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高校の頃には、「マイコン」「パソコン」なる個人所有のコンピュータ(以下、単にPC)の時代が幕を開けました。PCを使った通信をやられていた方は、多くがNiftyやPC-VAN時代の「パソコン通信」を経験されていると思います。 このころの通信手段といえば、アナログ電話線で、ごく初期のインタフェースは音響カプラです。本物はハムフェアのジャンクで見たことがありますが、通信している現場は見たことがありません。 その後は、アナログモデムで9600bps+RS-232Cが「高速通信」の標準になりました。まだまだ8bitマシンも元気な時代でした。そのうちにNECのPC-9801シリーズがツールとしての「パソコン」という分野を確立すると、ビジネスの世界では、本格的に通信の需要も出てきました。でも、まだまだ素人の手の出せる分野ではなく、機器も高価で低速、用語も難解で、趣味で使うには敷居が高過ぎました。
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ここまでは世の中の流れですが、当の私はというと、大学時代にPC-9801F2を買い、しばらくしてから、無線機とPC98をTNC (Terminal Node Controller)で繋ぐ、「パケット通信」なるものにハマっていました。 TNCはいわばモデムのような装置で、送信時はパソコンのシリアルポートから流れてくるディジタルデータを音声周波数で変調し、無線機のマイクジャックに入力。受信では、無線機のスピーカージャックからの音声信号をディジタル化してシリアルポートに返す、という装置です。もちろん変復調だけでなく、送受信の制御や接続制御も行います。 「ピー・ギャー」という独特の音が、430MHzを中心に聞かれました。一部の先進的な方々は、TCP/IPを無線上で実験していたようです。無線LANの走りともいえますが、当時はまだLANという概念さえ、一般的ではありませんでした。
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Fig.1-1
代表的なTNC TNC-23 今でも動く
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パケット通信は、短波帯(3〜30MHz)のバンドでも300bpsなら使用可能でしたから、海外とも交信可能(私はやりませんでしたが)でした。 パケット通信で採用されているプロトコルは、パソコン通信でも使われていたX.25をアマチュア無線用にしたAX.25というもので、今でも使用されています。ボーレートは300bps(HF帯)または1200bps(V,UHF帯)で、300では画面に表示される文字が出てくる順に追いながら読めました。 今から考えると、信じられないような低速度ですが、電電公社は1985年に民営化でNTTになったばかりで、電話機はまだ「黒電話」全盛の時代です。「デジタルで通信できる!」ということ自体、一般人にとっては感激だったわけです。TCP/IPは一般的でない時代でしたが、イーサネットに使用されたような搬送波検出・再送出のプロトコルで、同じ周波数を共用していました。アドレスに相当するものはもちろん、コールサインです。蓄積交換型なので、ヘッダに中継局となるコールサインをズラズラ並べてやれば、見通し距離外にも転送してくれました。 BBSも運用されていました(無線のBBSということで、RBBSと呼ばれます)が、リアルタイムのチャットも可能でした。こうして書いてみると、ネットワークでやっていることは今も昔もそう変わらないですね。ただ、BBSをやるには、無線機とPCとTNCの電源を入れっぱなしにしておかなければなりませんでした。(その後、TNC自体にBBS機能を搭載したものが出て、PCの常時運転は不要になりました。) 就職してからは、独身寮にPC98F2と無線機を持ち込んで、少しやっていた程度ですが、寮の屋上に上げた430のビームアンテナ+10Wで、神奈川県の西の果てから横浜の後輩とチャットできたことを覚えています。そのPCが93年頃、メモリーボードの故障で再起不能となってしまいました。代わりにモノクロのノート(PC98NS/T)を買ったものの、仕事で暇がなくなり、結局このパソコンは無線機にも電話回線にも繋ぎませんでした。この頃の世の中の標準は、9600〜28800bpsのアナログモデムでした。
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世は移り、DOS/Vマシンの出現と、Windows95の時代となりました。DOS/Vマシンは今でこそ主流になりましたが、まだこの頃は、日本ではNECのPC98シリーズが圧倒的に多数でした。ついこの間、NECが路線変更するまで、PC98アーキテクチャは生きていました。 通信の環境はというと、モデムの速度も28800bps超となり、画像(もちろん静止画中心)を含めたそこそこの通信ができるようになってきました。 これよりかなり前にNTTが始めた、1本の電話線で64kbps×2回線が「売り」のISDN(サービスの名称はINS)が徐々にブレークし始めたのもこの頃です。それまでは、INSといっても「一体(I)、何を(N)、するんですか(S)?」の略語だろう、とかからかわれていたくらい、一般の人には何に使うのかよく分からないサービスでした。パソコンという言葉は「ワープロ(死語?)」とともに一般に通用していたものの、それを「通信」に使うなどということは、まだまだ趣味の世界でしたから、無理もないですね。 アナログモデムの不安定さに対して、64kで安定して通信ができる強みと、PCが通信中でも電話が使えることが、受け入れられた理由だといわれます。この頃になると、インターネットの商用サービス(サービスプロバイダの出現)も始まり、パソコン向けの雑誌などでも「インターネット」「ホームページ」「電子メール」という言葉をよく見かけるようになりました。
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このような状況を前にして、新しい物好きの私はじっとしていられませんでした。職場でもイーサネット(10Base5)の黄色い同軸ケーブルが実験室中と居室を結び、電子メールはSunのWorkstation(UNIX)や一部のPC98マシン(MS-DOS)で読めるようになっており、使えて当然のコミニュケーションツールとなっていました。職場では、ネットワークに詳しく、私などよりもっとハイレベルな知識と技術を持った人たちが、半ばボランティア的にネットワークを構築してくれていたので、私はもっぱら「使う人」でしたが…。 個人でPCを買うことは決めたものの、「それで何をするのか」が見当たらないまま、時間が過ぎていきました。職場でPCをいじっていると、「インターネットだけではいずれ飽きる」と感じていたので、何か他にもPCでできることはないか、と思っていたのです。その当時、リバーサル写真をかじり始めていたので、写真データをディジタル化してはどうだろう、と考えるようになりました(後々、これが出費の種なのですが)。 相手は静止画ですが、当時すでに何百枚もありました。ですから、データが巨大になるのは必然で、CPU速度だけでなく、外部記憶にSCSIが使えるか、各種ボード類の拡張性はどうか、などがキーとなりました。 メーカー間の比較の結果、マザーボードの特性が素直で、拡張性にも優れ、(当時)電話サポートも充実していたGatewayに決め、ボーナスも出た96年の夏、PCの発注とISDNの導入をしてしまいました。モニタと本体を積み上げると小さな冷蔵庫ほどもある、巨大な牛柄のダンボール箱に目を丸くしながら「パソコン買ったの? いんたーねっと? なに、それ?」という妻を尻目に、セットアップしてしまいました。 フィルムスキャナもしばらくしてから購入しました。
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この時に購入したのが、GatewayのP5-166マルチメディアで、CPUがPentium 166MHz、メモリは32MB、HDDが2.5GB、CD-ROMが8倍速でした。その後、徐々に拡張してメモリが128MB、HDDが8.4GB×3台、最終的にはSCSIのMOやCD-R、IDEのRAIDカード(HDDは128GB×4, RAID 0+1構成)に100base-TXのネットワークカードまでも取り付けて酷使しましたが、2004年2月まで何の故障もなく動作していました。新しいボードやデバイスを付けるたびに心配された、相性問題が起きないので、感心しました。 この間、世の中では2000年問題が騒がれたり、USBや1394といった新しいデバイスの登場があったりで、すっかり変わってしまいました。が、このマシンだけは、繋がれていた物も含め、毎日変わりなく動きつづけてくれました。マザーはIntel製で、やはり定評通りの安定性と造りのよさ、というところでしょうか。
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Fig.2-1
2004年2月まで現役だったP5-166
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まだまだ動作はしたのですが、無理矢理Windows2000を入れた後は、ウイルス対策をしたりするとWebページの表示に数10秒かかるなど、さすがにCPU速度の遅さが目立ち、新マシンへの交代のため解体しました。 このマシンでは、いろいろPC自作のための知識を吸収することができました。バルクで買ってきたメモリやドライブ類を入れても、ハードウェアの「相性」に起因するトラブルがなかったため、自分のミスに起因するトラブル解決や、ソフトの設定に集中できたからです。
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解体はしたものの、余りにも長寿だったので、全部捨ててしまうには忍びなくなりました。そこで、記念碑的意味合いで、マザーボード(Intel 430FX "Thor")はメモリ・CPUを付けたまま「動態保存」することにしました。 この頃はまだ、CPUの2ndキャッシュは外付けで、256kBはオンボードでしたが、追加の256kBは今のマザーのほぼAGPの位置にありました。 あと、今から比べると驚くほど発熱量が少なかったので、CPUの放熱器が最近のマザーのチップセットほどで、時代を感じます。他の内蔵物(HDDやビデオカードなど)さえ発熱しなければ、ファンは電源搭載のもの1個で済んでいました。
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Fig.2-2
保存されているP166のマザーボード
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□ 2-3 時代はインターネット!? ISDN導入 |
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ISDNを使うには、ディジタルサービスユニット(DSU)とターミナルアダプタ(TA)が必要ですが、これにはNEC初?のDS内蔵型TAのAtermIT45/DSUを購入しました。当時はあまり選択肢がなく、単体でDSUとTAが一体になったものはこの機種くらいだったのです。当時のISDNも今のB fletsと似て、申し込んですぐに導入とは行かず、しばらく待たされることは分かっていました。なので、PCを発注してからすぐにISDNを申し込みましたが、実際に開通したのは、確か2週間ほど後でした。PC申込時に分かっていたことではありますが、待つのはじれったいものです。 実際の導入に当たっては、ちょっとした問題がありました。それは、
- 電話線は台所と洋室に、各々にモジュラージャックが付いている
- 各モジュラはブランチ接続で、上流側は台所のモジュラーである
- 電話は洋室と台所に置きたいが、PCとTAは洋室にしか置けない
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という、よくあるパターンです。台所にDSU/TAを置くと、PCへのシリアルデータ線が繋げず、洋室に置くと台所の電話へのアナログ電話線が引けない、ということになってしまいます。 壁に埋め込んであるモジュラージャックを外してよく見ると、電話線はすべて2対(2本ペアが2本)になっていたのです。これなら、ISDN回線はそのまま洋室まで引いておき、TAのアナログ出力を、余っている1対を使って台所まで戻せばよいことになります。新たに線を引く必要はありませんし、DSUより下流側は、責任分界点の内側なので、工事担任者の資格も要りません。
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Fig.2-3
各部屋への接続図
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そうこうするうちにやっとISDNの工事日となり、電話の方は無事に開通となりました。ISDNでは「ダイヤルイン」サービスを契約することで、2個以上の番号がもらえますが、この時点では元々の番号だけでした。 プロバイダはSo-netを契約しました。この頃は、まだプロバイダによってはISDNで繋げるアクセスポイントが限られていて、大手でも中小の都市ではAPが市外局番になってしまうこともあったので、どことでも契約、というわけには行きませんでした。So-netはISDN可で、近くにあったのでここに決めました。 さて、いよいよ準備が整って接続です。一通りの設定をしてダイヤルアップしてみますが、「ログイン名、またはパスワードが違う」と出て一向に繋がりません。今となっては何が原因だったか忘れましたが、ログイン名の単純な設定ミスをしていた記憶があります。間違えて接続するたびに10円取られるので、イライラしました。繋がって、So-netのホームページが表示された時には、思わず「ガッツポーズ」が出てしまいました。 今でもインターネット利用の中心はWebブラウジングと電子メールですが、当時はブラウザもメーラーソフトも有料で、NetscapeとEudoraを購入してインストールしていました。全国各地に散ってしまった高校の頃の部活の同志や、大学時代の友人らとメールをやり取りし、「電話代だけでどことでも手紙(笑)がやり取りできる」と感動したものでした。
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PCにはフィルムスキャナを繋いだり、プリンタを繋いだりして、当初の目的通りの働きをしてもらっていました。通信の方は、始めのうちは従量制でしたから、料金の割高感はありましたが、さほどヘビーに使うこともなかったのでしばらくはそのままでした。テレほーだいも検討しましたが、夜中にやると寝不足になるので、契約しませんでした。まだまだ、回線の細いプロバイダでは、繋がらないことも日常茶飯事でした。 その後、使用時間が長くなるにつれ、 ・i・アイプラン1200…1番号に限り\1,200で\3,000分の時間繋げる ・flets ISDN(96年)…ISDN回線を使った初の一般向け定額接続 のようなサービスが開始されるたびに、申し込んで使っていました。これによって、ある程度は割高感もマシンが遅いことによる接続時間のイライラも、少しは緩和されました。 ISDNの電話機能も、当初はダイヤルインサービスで、その後はi・ナンバーサービスで、対外公開用の電話番号と、友人や親類など完全プライベート用番号の2つを使い分けるなどしていました。DSU/TAもi・ナンバーに対応した、ISDNダイヤルアップルーターの中古を手に入れるなどして、かなり便利に使っていました。
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Fig.2-4
ISDN最後となったISDNルーター MN128SOHO
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Fig.2-5
28800bps Fax MODEM SMD-V344(SONY)
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ISDNの電話機能はこの他にも多彩で、サービスとしてはいいものでしたが、インターネット接続のためには、他のサービスと比べて料金が高すぎると思います。
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OSがずっとWindows95だったこともあって、不安定になることもありました。何度も再インストールしているうちに手順に慣れてしまい、上に書いたような用途に使っている限りは、特に大きな問題もありませんでした(というより、いろいろな不満に馴らされてしまっていた…というのが本当のところかもしれません)。 なので、世の中にADSLなるものが現れても、最初は乗り換える気になりませんでした。「どうせマシンが遅いから、回線だけ早くなっても意味ないし…」という諦めがありました。あまりにマシンが古過ぎると、高速道路(=ブロードバンド)を原付(=遅いマシン)で走っているようなもので、PCを買い替えなければ、意味がありません。すると、一度に出費がかさむため、買い控えが起きてしまうのです。 とは言え、いつまでもこのままで、増え続ける写真データに、重くなる一方のWebページ…Linux導入などで、OSやアプリの動作を軽くして乗り切ろうにも、限界がありそうでしたから、2000年ごろから、考えは徐々に買い換えに傾いて行きました。
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まずは軍資金です。貯金しようにも期日の目標がありませんから、デッチアゲでもいいので、決めることにしました。私の場合「光ファイバがここに引かれるまで」(今考えると、これじゃ、よけい目標が立ちませんね)。ホントに何の見通しもない、デッチアゲでした。これを考えていた当時は、まだ横浜でBフレッツが始まったばかりで、私が住む神奈川県中部までは、まだまだ先だろうから、その間に貯金して…という、勝手な憶測に基づいていました。 ADSLは始まっていましたが、なぜ、ADSLに乗り換えなかったのか、という説明にはなっていませんね。ひとつには、(今でも実現できていませんが)マンションに住んでいても無線をやりたかったため、高周波域までノイズを発するディジタル線を、住戸まで引き込みたくなかった[注]こと。もうひとつには、上にも書いたように2番号をISDNで使い分けるなど、便利に使っていたので、ISDNと共存できないADSLは選択肢に挙げられなかった、ということにあります。 その他にも、光ファイバの可能性に賭けたかった…という大きな理由がありす。これは、現実的要求というよりは、技術的興味からです。このあたりは光通信の能書き編でお話しましょう。
[注] 実は、ADSLは信号送出にあたり、アマチュア無線の周波数帯を避けて変調を掛けていますので、一応配慮はされています。
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2001年頃になると、「インターネット」は広く認知された用語となり、「ブロードバンド」が次のキーワードになって行きました。特に、ADSLはYahoo!BBが始めた、低価格なサービスで、各社競って低価格なサービスを繰り出してきたと共に、爆発的な勢いで利用者が増え始めてきたことは、記憶に新しいところです。 私も、正直に言ってISDNの基本料とフレッツISDNと合わせた金額とほぼ同じ価格で、速度がン百倍になるのなら、乗り換えたい気持ちでいっぱいでした。さらに、ここは電話局から1kmあるかないかのところなので、速度的にも問題ないはずでした。ところが、上にも書いたようなISDNの共存の問題と、「いずれは光」の気持ちで、ISDNを使いつづけていたわけなのです。 世の中の今の状況を見ると、ついこの間まで「韓国はADSLで、アメリカはケーブルテレビで、それぞれ定額ブロードバンドが普及している。日本の普及率が格段に低いのは、(光ファイバを追い求める)通信政策の誤りではないか」などという評論家までいたことからすれば、たった2〜3年ですが、「時は流れたな」という気がします。やはりタダ(でモデムを配る)よりすごいものはない、と思いますね。昨今の光ファイバサービスの低価格化も、一面ではADSLとの競争、ということもあるのですから。
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