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無線遍歴編2 タイトル
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 学校で電波を出しまくる一方、家でも開局しようと、高校生の分際で(当時)落成検査が必要だった100W局の開局を決行。ところが、自分の家や周囲の家にインターフェア(電波障害)が出まくり、予備免許の延長申請などという事態に追い込まれる。
 すでに受験準備が目前に迫り来る中、必死の対策でインターフェアを止めた(この時の経験は仕事にも生きた)。が、開局できた時にはすでに受験勉強シーズンの真っ只中。そして、案の定、浪人生活。
 大学や就職後は、住環境・仕事の多忙さからろくに電波が出せず、今に至る。

「無線遍歴編2」の目次

1 個人で100W局を開局
  □ 1-1 予備免許が来た
  □ 1-2 Iが止まらない(近隣編)
  □ 1-3 Iが止まらない(自宅編)
  □ 1-4 予備免許の延長
  □ 1-5 落成検査合格、即免許状交付
2 開局後の遍歴
  □ 2-1 開局はしたけれど…
  □ 2-2 大学時代
  □ 2-3 就職してから

個人で100W局を開局
□ 1-1 予備免許が来た

 部活は部活として続けていましたが、2アマを取得した高2の夏から、自宅で100W局の開局準備を始めました。ところがこれがとんだことになってしまったのです。
 当時、100W局はJARLの保証認定などはなく、電波監理局(今の電気通信監理局)から予備免許を受けた後、試験運用して落成検査を受けなければならない、「直接免許」でした。期間も、最低でも数ヶ月かかりました。申請は9月末頃だったと思いますが、予備免許が下りたのが12月。これでは正式に免許されるころには、3年生になってしまいます。それでも開局だけはしたいと思っていました。ちなみに、予備免許の期間は6ヶ月です。
 まず、リグとアンテナを買い込みました。リグは、今でも名機とされるTS-830Sに、455kHzと10.7MHzのIF各段に1本ずつ500HzのCWフィルタを入れました。こうすることで、IFの帯域可変機能を使うことができ、150Hz程度から500Hzまで、連続可変にできるのです。アンテナは21MHzの4エレと、ローバンドは3.5〜14MHzの短縮ダイポールを購入しました。
 予備免許と前後してアンテナ工事を行ないました。ダイポールは2階の庇から地面に向けて逆Vに張りました。4エレを載せるタワーはルーフタワーでしたが、屋根の傾斜がきつい上に屋根の片側の下は、1階の床面から3mも下の道路なので、落ちたらまず命はありません。なので、工事は近くの電気屋さんに頼みました。
□ 1-2 Iが止まらない(近隣編)

 予備免許が送られてきた際に、「近隣の家の妨害の有無を調査して、必要ならば対策をし、承認印をもらっておくこと」という用紙が含まれていました。この用紙に隣家全部の印鑑を押して事前に提出すれば、当日の「電波の質」に関する検査は省略する、とのことでした。本来なら、基本波に起因する混変調は受信側で対処すべきですが、費用負担などの責任問題も含めて、開局時には送信側で責任を持て、ということだと解釈しました。
 また、現実問題としても、100W局の検査ごときに重たいスペアナを持ってきて、検査するのは大変だ、ということだったのでしょう。但し、500W局で、この処置はあったかなかったか分かりませんが、測定器を用いての検査は100%行なわれていたようです。
 この頃住んでいた家で、該当する「近隣の家」は全部で6軒です。自らの家を含めると7軒になりますが、まず一番大変な「お隣さん」からです。自分はマイクやキーを操作しなくてはならず、よその家のテレビ画面は確認できませんので、ハンディを持っている友達に手伝ってもらい、連絡を取りながら行ないます。
 まずは事前に「ご説明」に上がります。無線を始めたいので、お宅のテレビに妨害が出ないか確認します、といえば理解してもらえますが、家に上がりこむので、ご挨拶程度の「菓子折り」は必要でした。「難しいことをやるのねぇ」と感心される家もあれば、少し気難しい顔をしたお年寄りが、迷惑そうな顔をしていることもありました。
 2軒を除いたお宅では、高調波も基本波もほとんど気づかない程度で、承認してもらえました。2軒のうち1件のお宅では、基本波が妨害を引き起こしており、アンテナ経由でのものでしたので、HPFを入れて止めました。
 もう1件のお宅は、そのお年寄りの家で、他の家とは明らかに違うレベルで妨害が出ます。高調波か、基本波か、といったレベルではありません。こういう時は何かが間違っています。テレビの配線をよく見てみると、アンテナから来ている同軸ケーブルが途中から切られていて、200Ωのリボンフィーダーがつながれ、テレビの近くに来て再び同軸になっている、というとんでもない配線。部屋のレイアウトを替えたときに、ケーブルがとどかないので、手近にあったリボンフィーダーを継ぎ足したのではないか、と思いました。
 勝手に手を入れるわけには行かないので、困ってしまい、後日JARLの監査指導委員に連絡して、事情を説明してもらいました。その後、費用をどちらが負担したかなどのことはよく覚えていないのですが、ケーブルを交換してもらって再度テストしてOKになったと記憶しています。
 さて、これで残るは自宅のみとなりました。自宅は事前に簡単なテストで相当ひどいことがわかっていましたから、気合を入れ直して臨みます。
□ 1-3 Iが止まらない(自宅編)

 やはり結果は散々でした。さほどの低電界地域でもないのですが、テレビはチャンネルとアマチュア局側の基本波の周波数によりますが、色が付かなくなったり、斜めの縞が出たり、音声が混じったり、ありとあらゆる症状が出ました。基本波か高調波かの区別以前の問題でした。インターホン(2線式)などは、7MHzでキーダウンすると「ホワーーーン」と鳴り出す始末。大半が地中の配線であるにもかかわらず、このありさまです。
 高校生には高価だった本(電波障害ハンドブック)を買い、徹底的に原因を詰めてゆくことにしました。この本は高価でしたが、小手先の対策ではなく、原因を突き止めてから適切な対策を取る、というスタンスが貫かれています。回路技術で生きてゆくことになった今では、製品のEMC試験時ではなく、理想的には設計の段階から対策を取っておく、という近年の製品開発の基本を学んだような気がしています。
 そんなことは当時は考えもせず、まずはインターホンに対策。内部の回路がどうなっているかも分かりませんでしたが、とにかく長く引き込まれた線に誘起した高周波的な電位を下げれば止まる、と考え、子機付近に線間にコンデンサ(0.1μFくらいだったと思う)を渡し、片側を接地棒につないで接地しました。これでインターホンIはぴたりと止まりました。
 次は手ごわいテレビ(2台)です。まずは基本波による混変調を抑えようと、HPFを2個買ってきてそれぞれに入れました。これでも多少良くなったものの、見られるレベルにはなりませんでした。ケーブルも壁の中は同軸で引かれているようなのでいいのですが、壁のコンセントからは200Ωのリボンケーブルだったので、同軸に替えてみましたがダメです。高調波も疑って、送信側にLPF(カットオフ30MHz)を何本も入れてみましたが、全く効きません。
 アンテナ工事の際に接地工事はしました。修学旅行で松江に行った際、接地抵抗を下げるため、地元産の炭を買って、大きな銅板を2枚、その炭と一緒に70cmの深さに埋めましたが、全く効き目はありません。シャックは2階にありましたから、「波長に対して無視できない長さ」の接地線は、高周波接地としての意味をなさなかったのです。そればかりか、アンテナになり得ることを知ったのは、後日後輩に指摘されてからでした。
 松江の炭などは全くのムダ骨、まさに「シロート」でした。
 テレビの妨害にホトホト策が尽き果てていた頃のこと。我が家のテレビ配線は、アンテナから下りてきて、1つ目のコンセントに分岐器があり、分岐した先は別の部屋の2つ目のコンセントに行っています。ここは何も接続されておらず、将来もテレビを置く予定はありません。2台のテレビは1つ目のコンセントから出た後に置かれた分岐器で分配しています。実は2つ目のコンセントに分岐している経路が「スタブ」(終端されていない)になっていて、アンテナになっているのでは、と思って1つ目のコンセントの分岐器を見てみました。
 驚いたことに、出力側の一方の口に、アンテナから来た同軸が入っている(IN/OUTが逆)ではありませんか! これでは真っ当に動作するはずがありません。急いでIN/OUTを繋ぎ直し、電波を出してみると、両方のテレビとも、ほとんどTVIは消えていました。
 最近のテレビはHPFが内蔵されているようで、昔ほど基本波に弱いテレビはなくなったようですが、こういうポカミスには注意が必要です。これは機器の開発でも同じで、イミュニティ性能が思ったよりかなり低い時は、入力のACフィルタのGND端子に接続を忘れていたり、扉の閉まりがイマイチで、スロットアンテナができていたりといった、単純なミスが原因であることが多いです。
□ 1-4 予備免許の延長

 上の内容は、一気にやったものではなく、大変な時間をかけてやったものです。勉強はほとんどしていませんが、部活で忙しい毎日を送りながら、休みの日にフィルタを買ってきてTVI対策を取ったり、お隣さんの調査をしたり…とやっていると、あっという間に予備免許の有効期限である6ヶ月が迫ってきました。アンテナ工事も天候で遅れたり電気屋さんに頼んだりと、いろいろと時間がかかりました。おまけに、WARC-79で開放が決まった新バンドが、予備免許中に日本でも開放になったので、その分を追加申請したり。
 そこで、仕方なく予備免許の延長許可を電監に願い出ようと思いました。予備免許が来た時に、延長申請の書き方が説明されていた記憶があります。様式は特に決まっておらず、紙のサイズと書かなければならない内容が決まっているだけでした。B5のレポート用紙に「申請の理由」として、「天候による空中線工事の遅延」「近隣電波障害への対応遅れ」などと書いて、3ヶ月の延長を申請した覚えがあります。これが、規則に言う「正当な理由」なのか分かりませんが、ともかく延長が認められてホッとしました。
 ところが、受験を控えて担任が親に面談し、余計なことを言ってくれたために無線関係のことはやめろ、と電波以外の妨害が多くなり、再び3ヶ月の延長を願い出ざるを得ませんでした。こればかりは「正当な理由」が見当たりません。放っておけばせっかくのコールサインが流れてしまいます。仕方なしに、また前回と同じような理由で3ヶ月の延長しました。
 そんなこんなで、やっと落成検査の日程が通知されましたが、受験の迫った高3の10月末になってしまいました。実に予備免許の日から、10ヶ月以上が過ぎてしまったのです。
□ 1-5 落成検査合格、即免許状交付

 検査の当日、お昼過ぎに年配の検査官が来られました。測定器の類は持ってきていませんでした。確か、検査簿・業務日誌・時計の有無をチェックしたあと、アンテナの周りを(ベランダから)確認しました。実際にパワーを出して電力を測定したりすることはなかったように記憶しています。
 そして、検査官は検査簿に「検査の判定 合格  指示事項 なし  郵政事務官 ○○」と、万年筆で書き込みます。次に電算機で、免許の年月日以外の項目が印字済みの免許状を取り出し、その万年筆で免許の年月日を入れてゆくのです。感激と同時に驚きでした。手書きの免許状など、見たことがありません。今でも、免許状自体は返納してしまいましたが、その「免許の年月日:昭和57年10月25日」と日付が手で書かれたもののコピーは保管してあります。
 検査官は10分ほど、世間話をしてから帰られたように記憶していますが、何を話したのか全く覚えていません。こうして、電話級の取得からほぼ4年、やっとの思いで自分の局が開局できました。

開局後の遍歴
□ 2-1 開局はしたけれど…

 せっかく開局したはいいのですが、すでに3年生の10月も末です。当時のログを見ると、ヨーロッパ等のDXと21MHzで数10局、国内も数10局やった後に、受験勉強という「冬眠」に入っています。
 そんな調子でしたから、担任の予言どおり、翌年3月には浪人が決まりました。その春休みには、予備校が始まるまでの数週間、無線をやりまくっていたことがログに残っています。同期の連中は、かなりの数が現役合格していました。3年生で部活に出ていたのはほとんど私だけでしたから、けじめをつけずにダラダラとやっているからこうなるんですね。元々要領が悪いので、部活をすっぱりやめても、受かれなかったとは思いますが。とにもかくにも、決して自慢できる人生ではありません。
 浪人時代は、さすがにリグを押入れから出すこともなく、アンテナからは電波も出ることなく、どんどん錆びて行きました。そんな「甲斐」もあってか、何とか翌年には多数受けたのに1校だけ合格することができ、晴れて大学に進むことができました。
□ 2-2 大学時代

 大学時代は、無線部には入りませんでした。電車を3本も乗り継いで約2時間かけて通っていましたので、他の部員のように、四六時中部室(シャック)に入り浸れなかったのが、主な理由です。低学年のうちは実験、2年以上になってくると実験+演習がハードで、家に帰ってくると居眠りしながらほとんどの時間がそれらに消えていきました。
 「関数論」なんて、複素数が輪になって積分したり、微分したりで、どう電気の問題が解けるのか、さっぱり分かりませんが、試験はしっかりあります。そうやって苦労した割には、身についてないんですが…。
 自宅の設備は、当初は3.5〜28MHzだけ(移動しない局)でしたが、大学2年のときだったか、FT-726を買い込み、このリグで21〜430MHzまで出られる(移動する局)ようにしました。パケットを始めたのもこの頃です。自宅からは、休日に少し出る程度でしたが、夏休みになると、高校時代の仲間とクラブ局を作り、峠へ移動運用に出かけたり、近場の山でコンテストに出たりしていました。
 あるとき、筑波大学に進んだ後輩の下宿をベースに、筑波山からコンテストに出ようと、仲間数人で移動したときのこと。大学近くの大型スーパーで食糧を買い込んで山を登り始め、場所を探していると、変なおじさんが近づいてきて、「無線やるの? ここから上の筑波山は、無線禁止!」と言われてしまいました。どうも、山頂に無線中継所があるので、禁止なようでした。そのおじさんは、管理事務所の人でした。やり過ごして別の場所にこっそり移動しようとしましたが、おじさんの乗ってきた車は我々の車が動くのを待っているのか、ぴくりとも動きません。仕方なく、その後輩の家に戻って、酒盛りと相成りました。
 OBだけでなく、現役とも無線をしていたことも多かったです。高校は歩いて数分なので、コンテストが近づいた時など、ふと屋上のタワーを見ていると、少人数でクモの巣のように張り巡らされたステーと、大型のHFのアンテナを上げ下ろしするのに、悪戦苦闘したりしているのを見て、たまらず飛んでいったこともあります。後輩は10年年下の年代まで、付き合いがありますが、ずいぶん煙たいOBだったことと思います。
 大学に入ってからも、そんな調子で高校の連中とは、OB現役両者とも付き合いが続きました。
 4年生で研究室に入って大学院に進んでからは、もっと時間がなくなり、移動に出かける回数も減りました。結局、大学時代の6年間は、さほど活発とはいえませんでした。時間の問題もありましたが、以前の住人と入れ替わった隣の家から「エレクト−ンから変な音が出る」というクレームが入ることもあり、自宅でフルパワーを出すのが、どうしてもためらわれた、という理由もあります。自分の部屋の中では、CDプレーヤーもちゃんと動作しましたし、インターフェアの問題はありませんでした。しかし、やはり、住宅地の真中でのハイパワー局の運用は、他人の目(耳?)を気にしながら、になってしまい、高いタワーでも建てないと無理のようでした。
□ 2-3 就職してから

 就職して家を出て、神奈川県西部の独身寮に入りました。無線機類は実家に置いてきました。ここは南は海ですが、それ以外の3方は山に囲まれており、低地からV,UHFは絶望的なロケーションです。最初のうちは無線をやる気にもなりませんでした。普段、毎日夜中まで仕事をしていたので、週末ごとに家に帰って無線をやるのも億劫でした。バリバリの後輩に言わせると、「要するにやる気がない」のだそうです。否定はしません。
 部屋は1階でしたが、寮は4階建てなので、屋上に登ればそれなりに視界が開けます。西側は箱根の外輪山があり、とても山越えは無理でしたが、東側は何とかなりそうでした。大きなアンテナは張れないようなので、430MHzでやることにしました。寮の壁は音が筒抜けでしたので、SSBやFMでやる気はなく、CWかパケットですが、430でCWの相手はほとんどいないので、パケットにしました。
 家からFT-726を持ってきて、12エレシングルと8D2Vを20m買って始めましたが、パケットだけではじきに飽きてしまい、独身時代はほとんどQRTとなってしまいました。あとで気が付いたのですが、他の寮では、棟の間にマルチバンドのダイポールを張っている人(この方は、何とJRALのコンテスト委員長も経験されています)もいて、それと比べれば、「要するにやる気がない」のはアタリだったと思います。