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□ 1-1 まずは定番、ゲルマニウムラジオを作ろう |
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ここでラジオの作り方を書こうというわけではありませんが…(私の場合)無線を語るときに忘れてはならないのが、電子工作。これ抜きにして無線の道にハマることもなかったでしょう。 1970年代半ば、小学生だった私は工作好きで「工作クラブ」に入り、竹や木でけんだまや船、立体凧などを作っていました。しばらくして、モーターやギアを組み込んだ自動車を作り始めた頃から、「デンキ」の方面にも興味が出てきて、いろいろと本や雑誌を読みあさるようになりました。 確か小学5年の夏休み、市立科学館で募集していた「ゲルマニウムラジオを作ろう」という「講座」に参加して、半田ごてでやけどをしながら作ったのが、最初のラジオ。ところがこれがロクに鳴らず(当時は、ゲルマニウムラジオが蚊の鳴くような声でしか鳴らないことを知らなかった、という話もある)、「SD-46(ゲルマダイオードの型番です)」「単連エアバリコン」「並4用コイル」はしばらく放って置かれました。ただ、「デンキ」に興味を失ったわけではなく、モーターを使った車の工作などは、続けていました。
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その年の冬休みだったか、翌年の夏休みだったか、家の一部をボランティアで「地域文庫」として貸し出していた祖父の家で、その手の子供用工作本の1冊を見かけたときのこと。「トランジスタラジオの作り方」というページがあったのです。回路図が付いていて、「これなら作れそうだ」と思いました。「トランジスタ」というのも当時の私には何だかとても「先進的」で、そそられるものがあったからでしょう。 まだ「コピー機」など一般にはない時代、その本がないと作れません。元々、各家庭で読まなくなった本を集めて「地域文庫」としていたこともあって、「管理者」だった祖母に頼むと、「いずれ捨てるものだから」とその本をくれました。 早速部品集めにかかります。当時私は名古屋に住んでいて、(知る人ぞ知る、ですが、その頃はまだ「名古屋の秋葉原」といわれる大須のパーツ屋街はありません)「カトー無線パーツセンター」に地下鉄に乗って出かけました。ところが、その本がかなり古かったため、肝心のトランジスタが生産中止になっており、店員さんが「トランジスタ互換表」で探してくれたのを覚えています。当時の定番は、2SA54や2SB56(いずれもゲルマ)、新しいところでは2SC372(シリコン)でした。 家に帰って、下手なコテさばきでやけどをしながら、やっとの思いで「ラグ板」の上に組んだラジオですが、ウンともスンともいいません。電源スイッチを入れたときのプツッという音(このラジオは1石なので、クリスタルイヤホンで聞きます)すらしません。散々回路図と見比べてチェックしたものの、全くどうにもならなくなって、近所の電気屋さんに持って行きました。 すると、店のおじさんは回路図と実物を見ると、一分も経たないうちに原因を突き止めてくれました。なんと、GNDが全部未接続になっていたのです。回路図上GNDは接地記号になっていたのですが、私は「その先に何も繋がっていない記号だ」と思い、全部の接地記号のノードを「オープン」にしていたのです。今考えれば笑い話ですが、そのGNDの重要性が、「アートワーク」という飯のネタになるほど重要なものだ、とは気づくはずもなく、ただただ「電気屋さんは、やっぱりすごいなぁ!」と感心したものでした。その電気屋さんは、半田ごてを取り出してきて、5分ほどで、音が出るようにしてくれたのでした。 その後、近くの空き地でアンテナ線を20mくらいに延ばしたり、単3×2本の電源を006Pに「パワーアップ」したりして、何とか大きな音を出せないか、と理論など何もなしに「実験」していました。 ここまで書くと、いわゆる「ラジオ少年」のように思われますが、会社で年が上の方々の話を聞くと、もっとすごい(雑誌の丸写しでなく、自分で設計できたような)人はいくらでもいて、私などは全く中途半端だったように思います。電子工作の他にも、岩石採集だの天体観測だの、(続けていた)工作だのと、勉強と運動以外のことはいろいろとやっていたので、「虻蜂取らず」になっていたということでしょうか。
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近くの図書館で「子供の科学」や「初歩のラジオ」を借りまくり、作れそうな回路を片っ端から…と行きたいところですが、小遣いも限られていて、「電子メトロノーム」などの小さなものを作っていました。中学になってすぐに、本格的な「直流安定化電源」に挑みました。これも雑誌に出ていた回路のそのままですが、+5V〜+15V可変4端子レギュレータのμA78MGとブースト用トランジスタの2SD111Yを使った、最大2Aのものでした。「ラグ板」からは進歩して、プリント基板も一応エッチングで作ったりしていました。低電圧で大電流を出力すると、トランジスタが触れないほど熱くなるので、熱設計の重要性を肌で感じたのもこの頃です。 家は父親の会社の鉄筋コンクリートの社宅でしたが、ある日、隣の家の窓枠に何だかアンテナが「くっついて」いるのに気が付きました。学年がひとつ上のお兄さんが、「ハム」をやっているのだ、という話は後で聞きました。電子工作の雑誌には、決まって「ハムの資格を取ろう」という通信教育の広告が出ていて、「国家試験が必要な難しいものだ」くらいにしか思っていなかったので、そのことについて話すでもなく、私は父の転勤に伴って、横浜の中学に転校となりました。 この中学では(他も同じだったと思いますが)その「ハム」なる物がかなり流行っていて、何人もの友人たちの家に呼ばれては、FT-101ES(なぜかみんなこれだった)にバーチカルやダイポールで、21MHzでDXをやるのを見せられ、「なんかすごいぞ、俺もやりたい」になっていったのが、今思えばこの世界への入り口だったような気がします。
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いざ、中学生が免許を取ろうとすると、なかなか壁が高いものです。今のように国家試験は何度もなく、年に2回の平日だけですし、講習会もかなりの時間と費用がかかります。友人たちは皆、「独学は難しいので、講習会がいい」と、講習会を勧めます。 迷いましたが、友人の勧めに従いました。講習会の申し込み用紙をもらおうと、JARLに電話した時のこと…なぜか異様に緊張していた私は、電話番号を間違えてしまいました。「違いますよ!」と、明らかに不機嫌な相手。「もういいや面倒くさい、やめようか」と思ったら、その相手が「JARLは03-yyy-zzzzですよ」と教えてくれたのです。気を取り直して掛け直し、申し込みました。もしここで、この人が私に番号を教えてくれていなかったら、無線をやることは「憧れ」だけで終わっていたかもしれません。 さて、申し込んだ講習会は、夏休みに中華街にほど近い会場で、平日のみの2週間ほど開催されるものでした。朝から夕方まで、法規と工学をみっちりでしたから、今考えてもかなりハードです。養成過程の教科書の厚さも、今の3倍くらいありました。ただ、学校の授業と違って先生方は現役のハムですから、交信の様子や自分でタワーを建てたときの話とか、適当な脱線があり、眠くならない授業だった記憶があります(眠い先生もいましたが…)。参加していたのは、ほとんどがおじさんで、小学6年生が一人だけいました。 ここで教わったのは、試験ではとにかく解答欄を埋める、と言うこと。今と違って試験は筆記式でしたから、書かなくては点になりません。計算問題では最終的な答えが分からなくても、計算の過程だけでも書く、説明の問題では知っていることは全部書く(加点法なので、間違ったことを書いても減点ではなく、加点されないだけ)、ということでした。おかげで、試験にも無事合格し、11月には従事者免許証が届きました。当時は免許の関連の事務は、何でも「3ヶ月待ち」でした。
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当時、私が通っていた中学には無線クラブはありませんでした。あれだけ流行っていたのに不思議ですが、友達はみんな家で開局していたので、学校でやる必要がなかったからかもしれません。どういう経緯だったか忘れましたが、たまたま、技術の先生がJA1コールのOMさんで、それまでなかったクラブ活動としての無線をとりあげてくれ、開局に至りました。もう受験も近づく3年になっていましたが、そんなことはお構いなしです。 機材もロクになく、活動も限られていましたが、とにかく「実践しよう」というコンセプトで、まずやったのがQRP実験。"1000mile per watt"というアメリカのアワードを目指します。このアワードは、(今でもあると思いますが)少なくとも片方がQRPで送信し、到達距離を電力で割って、1000mile(約1600km)/Wを超えれば、送信側にも受信側にアワードがももらえる、というもの。 この時は、3倍オーバートーンの水晶発振子を特注し、片方がそれを使った1石のCW送信機で、もう片方は受信専門としました。電信級を持った友人が、知る人ぞ知る横浜の「最高峰」円海山(151m)から送信し、私は中学近くの丘の上で、50MHzの八木を建て、片手に144MHzハンディで連絡を取りながらの交信でした。送信出力は直接測りようがないので、終段(といっても1石)入力電力で計算します。このときの記録ははっきりと記憶していませんが、入力は1mW以下、距離は8kmくらいありましたから、5000mile/Wは超えていたと思います。日本記録にはさすがに届きませんでした。 この実験は、顧問の先生の提案でしたがアワードの申請では、英語で申請書が書けずにいたら、「最後までやりなさい」と、怒られた覚えがあります。結局、ぐずぐずしていたら、申請書は先生が代わりに書いてしまいました。アワードはもらうことができましたが、今でも押し付けてしまって申し訳ない気がするのと、「自分たちで取った」という意味合いが薄れて、後悔しています。 学校でこんなことばかりやっていたので、家では開局しませんでした。無謀にも、QRP実験の時に電信ができるといいな、と思い始めて上級が欲しくなり、最初は電信級を目指そうとしていました。
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いざ、電信の練習を始めてみると、モールスの速度が電信級の25字/分というのは、遅すぎて取りづらく、45字/分の2アマの方がやりやすかったのです。もちろん、学科の方は格段に難しいわけですから、勉強しないといけません。受験が迫っていたので、とりあえず受験が終わってから一ヶ月も勉強すれば…と甘い考えで、申請書を出してしまいました。 受験は何とか志望校には入れたものの、無線の試験の方は、そんないい加減な状態で、蒲田の日本電子専門学校(受験会場です)に突っ込んだものですから、本番では電信(受信)は緊張して手が動かずにボロボロ、学科は半分も答えられずに不合格となりました。 これが後々までトラウマとなって、1アマの試験にまで影を落とそうとは、思ってもみませんでした。
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高校に入ると、勉強などそっちのけで、無線にハマり始めました。私が入った高校には、「無線部」という形ではなく、「科学部」の中に「無線班」がある、という形になっていました。私が入部してすぐに、ガンガン交信を始めたところ、2年生がほとんどいなかったため、1年生なのに班長に祭り上げられてしまいました。その後、約1年半に渡る任期中、高校生活のほとんどすべてを無線のために費やすこととなります。 入った当初は、アンテナは数は揃っていたものの整備不足で、常時電波を出せるのは数本でした。コンテストなどがあるたびに、なるべく金をかけずに手をかけて整備してゆき、卒業の頃には全バンドで、微調整のみでQRV可能となっていました。もちろん、班員と多数の協力があればこそできたことです。当時、高校のクラブ局はどこも元気に電波を出していましたから、皆同じような努力をしていたのでしょう。 コンテストでは、最初のうちは非常に苦戦しました。設備的な問題もありましたが、(私も含めて)オペレータが未熟で、パワーも低く、特にローバンドではハイパワーのクラブ局に歯が立たないのです。(当時のコンテストは、高校局も大学のクラブや社会人クラブの局と順位付けの区別はありませんでした。)ンkWのリニアもなければアンテナも限られる、力技でやっても負けるのだから、何とか技量をアップさせよう、と考えました。 そこで、設備の充実化と共に進めたのが、上級資格の取得でした。幸いにも元々コンテストのために、ではなく、向上心から上級取得の風潮が強く、先に取得した者が後進を教える、仲間内での勉強会(無線工学・法規)や実習(電気通信術)を「朝練」と称して、やっていました。 こんな具合ですから、年々上級資格者が増え、「天文やりたくて科学部に入ったのに、なんで2アマになっちゃったの」という人まで出てきて、結局卒業の頃には20数人いた班員の約半数が2級、さらに残りのうちの約半数が電信級という組織になっていました。免許も100Wに変更し、以前よりははるかにレベルアップすることができました。
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高校入学の春に受けた2アマの試験は落ちてしまいましたが、再起に向けて勉強はしていました。当時の上級の試験は、電気通信術と学科が別の日になっており、おまけに、両方とも平日でしたから、学校を休んで(サボって?)受ける羽目になりました。 部の友人3人で受けた高1の秋の試験では、通信術が先(当時の通知ハガキによれば10月3日)にあったのですが、またまた緊張して、受信がミミズの這った字になってしまいました。「今回もダメだ」、と諦めて10月8日にあった学科の試験を適当にやってしまったのです。ところが、結果が来てみると、通信術の「科目合格」。一人は合格してしまいましたが、もう一人の友人も全く同じパターンで、「諦めずにマジメにやればよかった!」の反省しきり。 二人とも、翌年の春(4月2日)に学科だけ挑戦して、やっと合格通知(6月30日)を手にしました。現在でも、上級国試の科目合格は通信術だけです。とにかく通信術だけ合格すれば、残り3年間のうちに学科を攻めればよいので、通信術の合格が、まず何より必要です。 合格通知は7月の上旬に来たような記憶があります。当時、免許申請には医師の診断書が必要でした。普通、診断書は数千円しますが、我々の仲間内で、先輩の時代から、無線をやっているお医者さんが格安で書いてくれる医院が伝わっており、そこで書いてもらいました。電車で数百円の交通費がかかりましたが、それを勘定に入れてもまだ圧倒的に安いのでした。 すぐさま、免許申請しましたが、従事者免許の日付は8月3日。今では早いと10日前後で来るようですが、当時は、何でもお役所仕事でのんびりしていました。そして、とうとうあのオレンジ色の表紙と「郵政大臣」の印の免許証…このときの嬉しさは忘れられません。 ところで、すぐにも和文を覚えて1アマにチャレンジ…と行きたいところでしたが、当面高校での運用には必要ない(500Wの機材などない)のと、個人でも500Wの開局は住宅地のど真ん中でしたので、無理だろうと、受ける気にはなりませんでした。学科も、複素数が出てくる電気数学には、とっつきにくさがありましたし。和文の電信だけでも覚えておけばよかったな、とは思います。テープは買ったのですが、そのままになっていました。今でも和文は聞けない/打てない、です。
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高校時代の部活の思い出というのは、部活動をしていた方なら、良いことも思い出したくないことも、多く残っているもののひとつかと思います。また、その時にできた友人は生涯にわたって親交がある、ということも多いでしょう。私もそうです。 入学当初のメンバーはもちろんのこと、学期/学年の途中から他の部をやめて移ってきた人、新入部員、部内の他の班からの強引な勧誘…私が卒業時には20人以上の大所帯になっていたでしょうか? 私が班長をやっていた間(その後も?)は、押し付けがましいこともして申し訳ない思いもあります。 当時から、無線というと、オタクっぽいイメージがありますが、我々の場合は気合が入りまくっていて、アンテナ整備とコンテストに関しては、運動部並でした。台風が近づいた時にアンテナをタワーから降ろすため、風雨の中をついてマストのトップに登り、死ぬような思いをしたり、タワーのステーを補強するため、船具屋に行って、船舶用のステー金具と、グリスの染み込んだステーワイヤーを200mも買い、20kg近い荷物を担いで、帰りのバスを追いかけた日もあったり。 後輩たちは、知り合いのローカル局が、28MHzの6エレフルサイズをくれる、と聞き、トラックを頼むでもなく雨の中を数km歩いて学校まで運んできたり、と、大人から見れば「ちょっとおかしな」集団だったと思います。しかし、これほどまでにメンバーが、あることに集中している組織に属したことは、いまだかつてありません。 また、私以外は無線以外の活動(天文・化学実験・生物の各班とのかけもちから、合唱部などの他の部活、はては生徒会という「政治活動」まで)も多くやっており、幅の広い視点を提供してくれました。 このときに得た6年以上の先輩から10年後輩までの関係は、高校卒業後約20年を過ぎた今でも続いています。皆社会人として、それぞれ無線以外の本業に忙しくて、年賀状だけの付き合いの方もいますが。
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